旅というものは、計画を立てた時ではなく、「行く」と決めた瞬間に始まるのだと思う。
長崎へのサウナ旅は、数ヶ月前から小生の頭の中にあった。行きたい施設をリストアップし、地図を眺め、ルートを妄想する。そこまでは完璧だった。しかし、日程が合わない。予算も合わない。「また今度にしよう」と先送りにするたびに、長崎は少しずつ遠ざかっていった。準備に時間をかければかけるほど、人間は腰が重くなる生き物なのかもしれない。
転機は、出発のわずか2日前に訪れた。何となくWEBサイトを眺めていると、今回の目的地である「ホテル南風楼」に、目を疑うほど手頃な価格で泊まれることが分かったのだ。有明海を一望する露天風呂、海に突き出たサウナ、名水百選の湧水を掛け流した水風呂。数ヶ月間、指をくわえて眺めていたあの施設である。気がつけば、予約完了の画面まで進んでいた。
金曜日の午後、神戸空港から長崎空港へ飛んだ。1時間ちょっとのフライトである。長崎空港に到着し、レンタカーを借り、島原市を目指してアクセルを踏んだ。
海沿いをしばらく走っていると、「ホテル南風楼」の看板が目に飛び込んできた。駐車場に車を停め、チェックインの手続きを済ませ、部屋に荷物を放り込む。ベッドに寝転がる、という選択肢は最初から存在しない。並々ならぬモチベーションを抱え、早足で大浴場へ向かった。
初めての施設では、まず浴場全体を把握するのが小生のマイルールである。内湯には、総ひのきサウナ、定員2名の瞑想サウナ、スチームサウナの3つのサウナと水風呂があり、島原の天然温泉を堪能できる広い浴槽が並んでいる。露天に出ると、こちらにも天然温泉の岩風呂、泡風呂、寝湯などが並び、その全てが有明海に面している。つまり、どの湯に浸かっても海を一望できるのである。そして露天には4つ目のサウナがある。その名も「うみのサウナ」。海を眺めながらセルフロウリュができるサウナだ。
さらに、水風呂が凄まじい。島原は古くから「水の都」と呼ばれ、市内のあちこちから雲仙の山々に磨かれた水が湧き出している。その「島原湧水群」は全国名水百選にも選ばれている。この名水を掛け流しにした水風呂が、14℃、15℃、17℃と3つの温度帯で用意されているのだ。地下水の水風呂に目がない小生にとって、これは事件である。
設備チェックの段階で、極上の体験ができることを確信していた。
身を清め、まずは露天の天然温泉に身を沈める。しっとりとした湯が肌に吸い付いてくる。暗闇の向こうから有明海の波音が聞こえ、潮風が頬を撫でていく。飛行機と車を乗り継いできた移動の疲れや、旅の初日特有の緊張が、湯の中でゆっくりとほどけていくのがわかる。目を凝らすと、対岸にぽつぽつと街の灯りが見える。海の向こうは熊本だ。身体も十分に温まった。さあ、サウナを始めよう。
1セット目は、露天の「うみのサウナ」に入る。なんと、貸切である。思わず小さくガッツポーズをした。室温は85℃くらいで、5〜6人が座れる総ひのき張りの空間だ。海に向かって大きな窓が突き出しており、夜の有明海が静かにこちらを見つめている。セルフロウリュができるので、早速ストーンに水をかけてみた。ジュワッという音と同時に、ほうじ茶の香ばしい匂いがサウナ室中に広がった。ロウリュ水がほうじ茶なのである。目を閉じ、鼻腔から肺の奥までをほうじ茶の香りで満たす。熱いのに、どこか縁側でお茶をすすっているような安心感がある。小生だけの貸切サウナで、心と身体をじっくりと整えていく。
限界まで身体を熱し、露天のインフィニティ水風呂へ向かう。地面から6段の階段を下って沈んでいく形になっており、水面の先はそのまま有明海につながっているように見える。一段ずつ足を進めるたびに、海に飛び込んでいくような錯覚に陥るのだ。水温は14℃。名水を掛け流したその水は、冷たさよりも先に柔らかさがやってきた。軽い。そして柔らかい。良質な天然水特有の、毛穴がスースーするような爽快感も同時に襲ってくる。水深は130cmほどあり、肩まですっぽりと浸かることができる。
水質の良さに感動しながらふと横を見ると、何やらボタンが配置されている。これを押せば何が起きるのか、小生は瞬時に理解した。迷わず押す。刹那、頭上から湧水が滝のように落ちてきて、脳天を直撃した。「うおっ」と声が漏れる。水風呂に浸かっているだけでも十分すぎる爽快感なのに、滝行まで用意されているとは。恐れ入った。
外気浴スペースも「どこに座るか迷う」ほどの充実ぶりで、全てのチェアから海を眺めることができる。水風呂近くのデッキに移動し、倒れるようにチェアに寝転がった。夜の有明海から吹いてくる風が、冷えた身体を優しく包む。正直なところ、ここまで水が気持ちいいとは予想していなかった。これまで全国各地で数えきれないほど水風呂に入ってきたが、間違いなくトップクラスである。
2セット目は、内湯の瞑想サウナに入る。定員2名の小さなサウナ室で、中央に仕切りがあるため、隣に人がいても完全にプライベートな状態でサウナを楽しめる。とはいえ、今回も小生以外に誰もいない。またしても貸切である。今日はツイている。ここでもほうじ茶のセルフロウリュができるので、即座に開始した。香ばしい香りが再び鼻腔から肺を満たす。照明は暗く、テレビもない。瞑想するために作られた空間だ。現実世界から完全に切り離されたような静けさの中で、ひたすら目を閉じ、ひたすらにほうじ茶の香りを感じる。滝のように汗が流れ、身体の中の老廃物がものすごいスピードで外へ飛び出していくようだった。
続いて、内湯の水風呂に入る。こちらは15℃だ。ところが、島原の湧水はあまりにも柔らかく、温度を感じさせない。全く肌に刺さらないのである。15℃の水に浸かっているはずなのに、ふっと全身の力が抜けていく。冷たい水の中でリラックスしているという、なんとも不思議な感覚だ。再び露天に出て有明海の風を浴びていると、しばらく放心状態になっていた。
3セット目は、内湯の総ひのきサウナに入る。ここは一番大きなサウナで、テレビがあり、毎時00分と30分のオートロウリュに加えてセルフロウリュも可能だ。つまり、この施設のドライサウナは全てセルフロウリュができるということになる。サウナに対する並々ならぬこだわりを感じずにはいられない。心地よいひのきの香りに包まれ、テレビをぼんやり眺めながら、じっくりと身体の芯まで温めた。
3セット目の水風呂は、露天にあるもう一つの水風呂を選んだ。チラーを使わず、湧水をそのままの温度で掛け流している壺型の水風呂で、3つ並んでいる。水温は17℃。その1つに身を沈めると、柔らかさ、滑らかさ、爽快感、そして幸福感が一斉に押し寄せてきた。島原の大地が、そのままの姿で小生を受け止めてくれている。永遠にこの水に浸かっていたい。骨の髄まで整っていくのがわかる。
ラストの4セット目は、再び「うみのサウナ」でほうじ茶ロウリュを楽しみ、インフィニティ水風呂でシャキッと締めた。これにて、夜のサウナは終了である。
デッキのチェアに寝転がったまま、ぼんやりと考えた。今回の九州サウナ旅は、まだ1件目である。1件目にして、もう絶頂を迎えてしまった。ここから先、この旅はどうなってしまうのだろうか。嬉しい悩みとはまさにこのことだ。




目が覚めると、朝6時だった。部屋のベッドの上である。どうやら、いつの間にか夢の世界へ旅立っていたようだ。完全に整った人間の睡眠とは、こういうものなのだろう。しかし、寝ぼけている暇はない。島原の朝には、絶対に外せない予定がある。有明海から昇る朝日を眺めながら、朝風呂に入らなければならないのだ。
大浴場の扉を開けると、有明海の向こうから大きな朝日が姿を見せていた。昨夜は闇に沈んでいた海が、金色に染まっている。その美しさに、小生はしばらく裸のまま立ち尽くした。露天風呂に浸かり、ひたすらに朝日を眺める。この特別な景色を、温泉に浸かりながら眺めることができている。寝起きの身体には刺激が強すぎるほどの幸福感だ。まさに、人生最高の朝風呂と言っていいだろう。
その後は、「うみのサウナ」で朝の有明海を眺めながらほうじ茶のセルフロウリュを行い、そこから海と一体化できるインフィニティ水風呂に浸かり、有明海を一望しながら外気浴をする。夜とは全く違う、光に満ちた海がそこにあった。この黄金のフローを何度も繰り返し、「ホテル南風楼」での滞在を終えた。
美しい自然と、温泉・サウナ。この2つが揃った場所は、人間が幸福になるための最高の組み合わせではないかと思う。どれだけ設備が豪華でも、窓の外がビルの壁では、ここまで心は動かない。
さて、旅の1件目にして既に絶頂を迎えた感覚であるが、旅はまだ始まったばかりである。ここから佐賀県太良(たら)町へ移動し、再び有明海の絶景を眺めながらサウナに入る。以前にも訪れたことがあり、今回で2回目の訪問だ。次の目的地は「蟹御殿 有明海の湯」である。
