旅先で、「もう二度とここに来ることはないかもしれない」と思う場所がある。
一期一会を信条にサウナ旅をしている小生にとって、それは珍しい感情ではない。むしろ、そう思うからこそ、その一度を全力で味わい尽くすのである。しかし、人生というのは不思議なもので、二度と来ないと思っていた場所に、ふと引き戻されることがある。まるで、見えない引力に手繰り寄せられるように。
島原の「ホテル南風楼」で、有明海から昇る朝日を浴びながらの朝サウナを終えた小生は、レンタカーのハンドルを握り、佐賀県を目指していた。
県境を越えて佐賀県に入った刹那、なぜか気分が高揚し、身体の奥から元気が湧いてくるような気がした。理由はわかっている。小生にとって佐賀県は思い出の詰まった場所であり、同時に、サウナや温泉という視点で見ても日本トップクラスの土地だからだ。名湯があり、名水があり、名だたるサウナがある。佐賀の道を走っているだけで、身体が勝手に「これから良いことが起きる」と期待し始めるのである。
道沿いには「月の引力が見える町」という看板が見えてきた。ここ太良町の前に広がる有明海は、日本で最も干満の差が大きい海で、その差は最大で6メートルにもなるという。潮の満ち引きは月の引力によって起こる。つまり、この町では月の引力を目で見ることができるというわけだ。なんとロマンのあるキャッチコピーではないか。
そして、この町にあるのが、今回の目的地「蟹御殿 有明海の湯」である。
以前ここを訪れた時、「地理的に考えて、もうここに来ることはないかもしれない」と思っていた。しかし、「引力」に引き寄せられ、またここに戻ってきた。だからこそ、駐車場に車を停めたとき、胸の奥からじんわりと感慨が込み上げてきた。
再訪の喜びを噛み締めながら受付を済ませ、大浴場へ向かう。時刻は12時。この時間帯は日帰り利用者しかおらず、浴室には小生を含めてわずか2人だけ。ほぼ貸切である。
「蟹御殿 有明海の湯」は、決して大きな施設ではない。むしろ非常にコンパクトだ。温泉の内湯が1つ、サウナが1つ、水風呂が1つ、外気浴のチェアが5つ。スーパー銭湯のような「あれもこれも」は存在しない。しかし、その一つ一つが一流なのである。
至高の入浴フローは、実にシンプルだ。サウナ好きなら一度は入ってみる価値がある、美しすぎる「グラヴィティサウナ」で身体を熱する。多良岳山系に磨かれた天然水の水風呂に、階段を一段ずつ下りながら沈んでいく。そこから数歩でインフィニティチェアに身を預け、有明海を一望しながら心ゆくまで外気浴をする。以上である。全部書いてしまったが、この単純な流れが、とんでもない破壊力を持っているのだ。
では、入浴を始めよう。
身を清め、まずは温泉に浸かる。内湯の浴槽を満たしているのは、「太良嶽温泉」だ。無色透明でクセのない、穏やかな湯である。大きな窓の向こうには有明海が広がっている。
海の景色というものは、人の心に安らぎを与えてくれる。何か悩みを抱えていたとしても、ぼーっと海を眺めているだけで、気がつけば穏やかで前向きな気分になっているものだ。そこに温泉とサウナが加われば、それはもう、人生で最も豊かな時間と言っていいだろう。
温泉でたっぷりと癒された後は、激しい熱に包まれる時間である。
まさか再び、このサウナ室の扉を開ける日が来ようとは。満面の笑みでサウナ室に入った。刹那、やはりその美しさに心を奪われた。樹齢350年から400年とされる貴重なスプルースを、熟練の職人が一つ一つ手で削り出して作り上げたというサウナ室だ。壁も天井も、柔らかな曲線を描きながらうねっている。直線がほとんどないのである。まるで大木の内側に入り込んだような、不思議な包容感がある。
サウナ室の正面は全面ガラス張りで、その向こうに有明海が一望できる。海を見るべきか、サウナ室の造形を見るべきか。贅沢すぎる悩みに、小生の視線は何度も行ったり来たりした。
そして、改めて感心したのが窓ガラスである。これだけ大きなガラスにもかかわらず、曇りひとつ、水垢ひとつない。まるでそこに窓が存在しないかのように、有明海がくっきりと見えるのだ。景色を売りにしているサウナや温泉は全国にたくさんある。しかし、肝心の窓ガラスが水垢で白く濁っていて、「惜しい!」と叫びたくなる施設も少なくない。毎日この大きな窓を磨き上げるのは、相当な手間であろう。こういう細部へのこだわりこそが、本物の上質というものなのだと思う。
限界まで身体を熱し、サウナ室を出る。いよいよ、多良岳に磨かれた天然水に身を沈める時間である。
水風呂は海に面したテラスにある。地面から階段を下りていく造りで、一段下りるごとに、冷たい水が足首から膝、腰、胸へとせり上がってくる。最深部は150cmほどあり、立ったまま肩まですっぽりと浸かることができる。水温は14〜15℃くらいだろうか。かなり冷たい。しかし、冷たさ以上に、水の柔らかさと爽快感が全身を包み込んでくる。
そして何より、目線の高さに水面があり、その先に有明海が続いている。自分が有明海にそのまま浮かんでいるかのような錯覚に陥るのである。この感覚が、小生を水風呂から出してくれない。しばらく身体を冷やし、ようやく階段を上がって、チェアに全体重を預けた。
そこからは、時間を忘れた。外気浴というより、もはや日光浴である。10月上旬という、1年で最も外気浴が気持ちいい季節。目の前には有明海。真上には雲ひとつない青空。浴室には小生を含めて2人しかおらず、整いを邪魔するものは何一つない。これだけの条件が揃ってしまうと、外気浴をやめることの方が難しいのである。
誰にも急かされず、時計も見ず、自分の内側から合図が送られてくるのをただ待つ。現代において、これほど贅沢な時間の使い方は他にないのではないだろうか。日常では、次の予定、次の仕事、次の連絡が常に小生を急かしてくる。しかしここでは、次に何をするかを決めるのは、他でもない自分の身体なのである。
そこから先は、同じように美しいサウナ、天然水の水風呂、有明海と一体化する外気浴を、無心で繰り返した。浴室を出る時には、2時間が経過していた。
また必ずここに戻ってくる。そう心に決めて、「蟹御殿 有明海の湯」に別れを告げた。


サウナで空っぽになった胃袋が、食べ物を要求している。近くの定食屋に滑り込み、うまい刺身を堪能した。生きていることを実感する味だ。
腹を満たしたら、ひたすら佐賀県を北上する。有明海を背に、今度は玄界灘を目指すのだ。次の目的地は、唐津市の呼子である。そんな町に、実にユニークなサウナがあると知ったのは数ヶ月前のことである。鯨をモチーフにしたサウナ、呼子名物のイカをモチーフにしたサウナ、唐津焼の窯で使われていたレンガを活かした窯サウナ、そしてイカの生け簀をそのまま使った水風呂。説明を読んだだけで笑ってしまうほど個性的なサウナが揃い、日本中のサウナ好きから注目を集めている施設である。
その施設の名は「JIN6サウナ」だ。
